今や日本の皇室は国内外から大きな注目を集めており、日本国及び日本国民統合の象徴にふさわしい煌びやかな存在として絶大な人気を誇っていらっしゃいます。
ですが、光があれば闇もある…
いくつかある皇室タブー、その中でも、最大級の皇室タブーとして、自ら命を絶ったとされる天皇、皇族を4名ご紹介します。
自ら命を絶った皇族4人と、崩御の理由、最期の瞬間【海外の反応】
それでは、様々な理由により、自ら命を絶ってしまった皇族の方々をご紹介していきます。
自ら命を絶った皇族1:弘文天皇
弘文天皇
別称は大友皇子
生まれは648年、崩御は672年8月21日
日本の第39代天皇であり、在位は672年1月9日から672年8月21日まで
このとき日本は飛鳥時代です。
父は天智天皇、母は伊賀宅子娘、妻は天武天皇の第一皇女 十市皇女、第一皇子に葛野王がいます。
『日本書紀』によれば、天智天皇は実弟の大海人皇子を東宮(皇太子)に任じますが、天智天皇は我が子可愛さの余り、弟との約束を破り
大友皇子を皇太子に定めたと記されています。
(大海人皇子)
にとっては、面白くなかったでしょう…
皇太子への道を突然なかったことにされたのですから。
大海人皇子は、「直系の皇子に継がせるのが筋なので、私は出家します」と宣言し頭を丸めています。
晴れて大友皇子は皇太子になります。
父 天智天皇が亡くなり、大友皇子が弘文天皇として即位しますが、実は即位していなかったという説もあります。
すると、大海人皇子がなぜか反乱を起こし壬申の乱が勃発します。
壬申の乱とは、西暦672年7月24日から8月21日に起こった、古代日本最大の内乱とされています。
大友皇子に対し、大海人皇子(後の天武天皇)が兵を挙げて勃発!!
反乱者である大海人皇子が勝利するという、日本では例を見ない内乱となりました。
大海人皇子側が連戦連勝したことで、大友皇子が首を吊り亡くなっています。
この後、大海人皇子が天武天皇として即位。
なぜ一度は頭を丸め出家した大海人皇子が反乱を起こしたのか、理由がわかりません。
周りの者から、大海人皇子の即位を推す声が高まり、内乱になった可能性もあるでしょう。
672年1月7日の先帝 天智天皇崩御から壬申の乱による敗死まで、大友皇子の治世は約半年と短く、即位に関連する儀式を行うことは出来なかったそうです。
このため歴代天皇とみなされてはいませんでしたが、明治3年(1870年)になって、弘文天皇と追号されました。
ところが、大友皇子の生存説もあるようです。
白山神社の祭神は大友皇子と菊理媛命とされ、この地に落ち延びた皇子が暮らした「小川御所」の跡とされています。
(白山神社)
白山神社古墳は、大友皇子を埋葬したと伝えられています。
(白山神社古墳)
御腹川は、大友皇子が天武天皇の追手に見つかり割腹した場所とされています。
(御腹川)
弘文天皇(大友皇子)の陵は滋賀県大津市御陵町にある長等山前陵に治定されています。
自ら命を絶った皇族2:早良親王
早良親王
生まれは天平勝宝2年(750年)、崩御は785年11月13日または23日
奈良時代の皇族であり僧侶
父は光仁天皇であり、母は高野新笠、兄弟に能登内親王、開成、桓武天皇などがいます。
尊号として、死後に崇道天皇という名前を贈られていますが、皇位継承をしたことはないため、歴代天皇には数えられていません。
早良親王の陵は、奈良県奈良市八島町の八島陵です。
早良親王は非業の死を遂げています…
その霊は、怨霊となって祟ったと信じられています。
兄・桓武天皇に対しては深い怨みを抱いて亡くなりました。
(桓武天皇)
理由は、権力闘争の狭間の中で、身に覚えのない罪をでっち上げられ亡くなったからです。
桓武天皇の治世(737年から806年)でのこと。
兄 山部親王が桓武天皇として即位すると同時に、早良親王は皇太弟に立てられたというから、将来を嘱望された人物であったことに間違いはありません。
延暦4(785)年、新都建造使長として長岡京造営の任に当たっていた藤原種継が何者かに殺害されるという事件が起きました。
首謀者として遷都、つまり都を他の場所へ移すことに反対していた大伴一族が捕らえられますが、同時に、早良親王までもが関わっているとみなされてしまったのです。
真相は不明ですが、早良親王は長岡京乙訓寺に幽閉されてしまいます。
まったく身に覚えのない親王は、無実を訴えて断固抗議しますが、訴えが認められることはありませんでした。
そしてついに、淡路島へと流されてしまいます…
早良親王は絶食という危険な行為により、自らの潔白を訴えますが、都を出て10日余りのこと。
現在の大阪市旭区守口の高瀬神社付近に差し掛かったところで、とうとう亡くなっています。
(高瀬神社)
一説によれば、親王を罪に陥れたのは兄の桓武天皇だったとか。
長男である安殿親王に跡を継がせたいとの思いから弟を罪に陥れたというのです。
(安殿親王)
政権側にとってはこれで一件落着と思われたのですが、早良親王の死後、宮廷内で不可解な事件が連続して起こります。
まず、天皇の夫人・藤原旅子が若くして亡くなったのをはじめ、皇后や側室なども次々と亡くなっていきます。
次の天皇にと期待を寄せていた安殿親王も病に倒れ、その妃である藤原帯子までもが急死
慌てた桓武天皇は早良親王に崇道天皇の諡号を追贈した上で、遺骸を淡路国津名郡の山陵から大和国八島陵へと改葬。
(八島陵)
さらに、怨霊を鎮めるために、崇道天皇社(奈良市西紀寺町他)をはじめ、各地に御霊神社を設けて祭り上げたのでした。
それでも安心しきれなかったのか、桓武天皇は長岡京を捨て平安京へと遷都することにしたのです。
(平安京)
都の名を「平安」とした天皇の思いは、いうまでもなく自らの心の平安を願うものであったに違いないでしょう。
自ら命を絶った皇族3:安徳天皇
安徳天皇
生まれは1178年12月22日、崩御は1185年4月25日
日本の第81代天皇で、在位は1180年3月18日から1185年4月25日
歴代天皇の中では、最も若くして崩御した平安時代の天皇です。
父は高倉天皇で、母は平徳子
生後まもない1178年12月15日に立太子、1180年2月21日、満1歳2か月で皇位継承し、4月22日に即位しました。
幼帝の政治の補佐は母方の父である平清盛が取り仕切りました。
時は源平合戦の真っただ中
1183年、源義仲の入京に伴い、平宗盛以下、平家一門に連れられ安徳天皇は都落ちします。
源頼朝が派遣した鎌倉源氏軍によって、平家は一ノ谷の戦いと屋島の戦いに敗北。
特に屋島合戦(1185年2月)の敗北により、天皇と平家一門は海上へ逃れます。
そして1185年4月、最期の決戦である壇ノ浦の戦いで平家と源氏が激突!!
(壇ノ浦の戦い)
平家軍は敗北し、一門は滅亡に至ります…
この際に安徳天皇は入水し、歴代最年少の数え年8歳(満6歳4か月)で崩御したのです。
(入水の描写)
『平家物語』「先帝身投」の描写では、最期を覚悟して神璽と宝剣を身につけた母方祖母・二位尼(平時子)に抱き上げられた安徳天皇は
「わたしをどこへ連れて行こうとするのか」と問いかけます。
二位尼は涙ながらに、「君は前世の修行によって天子としてお生まれになりましたが、悪縁に引かれ、御運はもはや尽きてしまわれました。この世は辛く厭わしいところですから、極楽浄土という結構なところにお連れ申すのです」と言い聞かせたとされています。
天皇は小さな手を合わせ、二位尼は「波の下にも都がございます」と慰め安徳天皇を抱いたまま、壇ノ浦の急流に身を投じたそうです。
入水せず、平氏の残党に警護されて地方に落ち延びたとする伝説もあります。
壇ノ浦の戦いの1年後、安徳天皇の怨霊を鎮めるため、源頼朝の命により阿弥陀寺御影堂が建てられました。
(御影堂)
幼かった安徳天皇に自害の認識はなかったかもしれません。
皇位継承などせねば、普通の少年として生きていけたでしょう…
あまりに切ない生涯だと思います。
安徳天皇の陵は赤間神宮境内の阿彌陀寺陵です。
自ら命を絶った皇族4:順徳天皇
順徳天皇
生まれは1197年10月22日、崩御1242年10月7日
父は後鳥羽天皇、母は藤原重子、妻は九条立子、子は仲恭天皇ほか。
日本の第84代天皇で、在位は1210年12月12日から1221年5月13日まで
承元4年(1210年)11月、後鳥羽上皇の強い意向により、土御門天皇の譲位を受けて皇位継承し、14歳で即位します。
父の影響で和歌や詩にも熱心で、藤原定家に師事して歌才を磨きました。
(藤原定家)
父上皇の討幕計画に参画しそれに備えるため、承久3年(1221年)4月、順徳天皇は子の懐成親王(仲恭天皇)に皇位を譲り、上皇の立場に退きます。
順徳上皇は父以上に鎌倉幕府打倒に積極的で、5月に承久の乱を引き起こしたものの、倒幕は失敗に終わります。
(承久の乱)
乱後の7月21日、順徳上皇は都を離れて佐渡へ島流しとなりました。
流されて21年の後、1242年9月12日に佐渡にて崩御されます。
上皇と近かった平経高の『平戸記』の仁治3年10月10日の記事に記された内容から(御帰京事思食絶之故云々)、順徳上皇は単なる病死では無く、絶食による事実上の自殺であった可能性も指摘されています。
陵は、京都府京都市左京区大原勝林院町にある大原陵です。
自ら命を絶った天皇・皇族に対する海外の反応【宮内庁への批判】
皇族である彼らの非業の死について、いくつか海外の声をご紹介します
今の日本じゃ考えられないね
国内の内乱で天皇が自死だなんてクレイジーだ
今の日本の天皇陛下やプリンセス愛子がこんな死に方したら騒ぎじゃ済まないと思います
宮内庁はいったい何をやっていたんだ?フォローできなかったのか?
当時の日本に宮内庁なんてないだろ
いや、宮内庁と同等の組織やチームはあったと思います
昔の出来事とはいえ、日本人は自国のエンペラーの自死についてどう考えているのだろう
など、天皇や皇族の自害に驚きの声、宮内庁のような組織があったのなら自害を阻止できなかったのか、などの声が散見されました。
まとめ【自ら命を絶った天皇・皇族】
以上、自ら命を絶ったとされる日本の天皇、皇族についてご紹介してきました。
ここでご紹介した方々は遠い昔の皇族ですが、近代の皇族の中にはそういった亡くなり方をされた方々はいないのか…?
もしかしたら、いらっしゃるかもしれません。
そうだとしても、隠さず報道されることはないでしょう。
そもそも昔のように戦や権力争いがありません。
しかし昨今は、精神病を抱えた皇族方もおられます…
公開されていないだけで、様々な問題を抱えているはず。
皇族方の心のケアがより重要となっていると思います。